「全部見たからもう要らない」と、陶芸家…


 「全部見たからもう要らない」と、陶芸家辻清明(2008年没)が語った、という。北大路魯山人の作品は見て十分に吸収したので、手元に置いておく必要はない、という意味だ。山田和(かず)著『知られざる魯山人』(文春文庫)の中に辻の言葉が書き留められている。

 自分の脳裏にその作品がしっかりと刻み込まれていれば、魯山人の器といえども不要だ、といういかにも実作者らしい発言だ。山田氏は、辻のような「記憶の所有に徹する真の美術家」と「所有にこだわる収集家」の違いをそこに見ている。

 小林秀雄も「島木健作を知っていれば、彼の作品なんか読まなくてもいい」と書いたことがある。「彼の日常生活さえ知っていれば、作品なぞどうでもいい」という意味だ。辻のケースとは微妙に違うが、「作品なぞ、もはやどうでもいい」という趣旨は同じだ。

 ただ小林に対して少々まぜっかえしておけば、島木クラスの作家だから小林の言葉も成り立つので、相手が例えば夏目漱石だったらどうか、という問題は残る。

 もっとも小林は終始一貫、漱石には全く関心がなく、彼に言及することもなかったのだから、実際のところは分からない。

 「作品が全て」という考え方が一方にあって、これはこれで真実には違いないが、「作品以上に大事なものがある」という考え方も、あながち否定はできないだろう。「作者か作品か」という問いは、芸術をめぐる永遠の課題のようだ。