「殖産興業の事業を興し、国民の一人といえ…


 「殖産興業の事業を興し、国民の一人といえども怠惰であったり参加できなかったりということがないようにし、国民を豊かな生活にまで達するようにしたい」(「大久保利通文書」)。

 1871(明治4)年からの欧米視察で列強の実情に衝撃を受けた新政府の重鎮・大久保利通(1830~78)の新しい国造りへの並々ならぬ決意を示した一文。「殖産興業」は初代内務卿の大久保が中心となり進められた。

 製糸・紡績の官営模範工場の建設をはじめ、農業試験場などを設けて農業の近代化も図られ、国力の基礎が築かれることに。その一つが今回世界遺産となった「富岡製糸場」だ。

 フランス人技術者ポール・ブリュナらの指導で西洋技術を採り入れ1872年に建設。地域の養蚕技術と融合させて発展させ、世界をリードする水準にまで高めた。富岡周辺はもともと養蚕が盛んな地域で、大量の繭が集められたのも功を奏した。

 開業当初、女工(富岡では「工女」と呼ばれた、働く女性たち)の多くは、地方の素封家や旧士族の子女だった。富岡は地方に技術を伝える拠点工場として労働条件も良かった。

 細井和喜蔵著『女工哀史』や山本茂実著『あゝ野麦峠』で描かれたように、各地の製糸・紡績工場で厳しい労働が課されたことも事実だが、多くの女性たちは大きな誇りをもって生き生きと働いていた。富岡製糸場は明治の時代精神も知らせてくれる。