苦難の行軍


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 顕宗(朝鮮18代王)12年、1671年のことだ。

 雨が降らず大地は亀の甲羅のようにひび割れた。伝染病まで流行(はや)り、おびただしい人が飢えて、病に侵されて死んだ。その年の5月、『顕宗改修実録』にはこんな記録がある。「飢えて病を患って死んだ人が漢陽(現ソウル)だけで3120人に達した。八道から報告された死者は1万3420人で、三南(半島南部にある忠清、全羅、慶尚の3道)がいっそうひどかった」。実情を隠そうとした地方の長官たちのことを考えると、その数字も信じ難い。

 広州府尹(府の長)李東稷。救民用の米が底をついて人々が死んでいくので朝廷に兵糧米を民に分け与えることを懇請した。返事は冷淡にも「不可」。府の役所で徹夜して悩みぬいた李氏は「1日遅れれば千人が死んでゆくのではないか」と言って、その日、下級官吏や住民を倉庫に呼び集めて錠前を壊した。この時、民に与えた穀物が10万俵に達したという。

 李氏はどんな考えで錠前を壊したのだろうか。「民は食をもって天となす」、「恒産なくして恒心なし」。こんな治道の文句を昼夜そらんじた“朝鮮の士大夫”は流刑の覚悟ぐらいはしただろう。彼が救った民は1万人に達し、民は涙を流して彼を称賛した。「春や夏に救済されれば、父母や妻子は皆死んでいたでしょう」。翌年1月、彼は罷免された。清の使臣が三田渡に行ったのに牛を屠る者を待機させなかったという理由からだ。しかし、その年の5月、電撃的に承政院の承旨(王の秘書官)に任命された。生きて動いた「為民」の精神。それが500年の朝鮮の歴史を導いた力ではなかろうか。

 北朝鮮で「苦難の行軍」がまた始まるようだ。住民の間に不安が広まっているという。清津のスナム市場やポハン市場では商品が消えたという。清津だけだろうか。1990年代の悪夢が蘇(よみがえ)っているようだ。苦難の行軍。言葉はいいが、行軍の旗を高く掲げた1996年だけで100万人が飢えて死んだ。故黄長燁書記が伝えた話だ。兵糧米を配ったらそれほど多くの人が犠牲になるはずがない。北朝鮮軍の倉庫には3年分の兵糧米が積まれているという。

 北朝鮮は反米闘争を扇動し、「金正恩擁衛」を叫んでいる。こんな問いを投げかけてみる。恒心を望むのか。そうならば恒産はあるのか。李東稷が蘇って兵糧米の倉庫を壊したら彼に勲章を与えられるか。これでもあれでもないなら、それは極めて危険な状況にあるということだ。

 (3月9日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。