「はやぶさ2」の快挙と「人間の進歩」


 小惑星探査機「はやぶさ2」は3日、目的地の小惑星「リュウグウ」に向けて軌道変更に成功した。「はやぶさ2」は平成30年に「リュウグウ」に到着し、3度着地して岩石などを採取し、32年に地球に持ち帰る予定だ。宇宙航空研究開発機構(JAXA)が14日、発表した。

 探査機の軌道修正には高度な計算が必要だろう。読売新聞電子版によると、「はやぶさ2は3日、米ハワイ付近の高度約3090キロで地球に最接近。引力の影響を受けて軌道を曲げ、小惑星へと進路を変更し、地球の運動エネルギーを受けて秒速約1・6キロ加速した」という。

 このニュースを読んで科学の急速な発展に気が遠くなるほどの眩暈を覚えた。同時に、「はやぶさ2」を支える科学技術は飛躍的に進歩しているが、「私」は進歩しているだろうかという素朴な疑問が湧いてきた。

 当方は宇宙関連のニュースが大好きで、科学欄のニュースには目を通すようにしているが、日進月歩という表現はまさに科学分野の発展を表現するためにあるのだろう。

 問題は、科学分野が急速に発展するのに、人間は18世紀、19世紀と比べて余り発展していないのではないかという絶望感に襲われるのだ。科学は進歩するが、「私」は旧態依然の「私」に留まっているという一種の焦りだ。

 「はやぶさ2」だけではない。コンピューター技術、医学分野でも同じだ。日々、新しいものが発見され、発明されている。もちろん、それを実現するのは「私」と同じ人間だが、「私」ではない。一部の専門家であり、天才たちだ。天才たちと「私」の格差は日々拡大してきた。「貧富の格差」どころではない。ただし、問題は「知識の格差」ではない。科学の発展に呼応できる「私」の精神の発展が遅れていることだ。

 一部の天才たちが創造したものを享受するのは「私」を含む大多数の普通の人だ。それを文明と呼ぶのかもしれない。時代の恩恵という表現になるのかもしれない。大多数の「私」はコンピューターがどのように作用し、「はやぶさ2」がどのようにして遠距離から軌道を変更できるのかは説明できないが、最終製品を楽しみ、探査機の成功を喜んでいる。

 もちろん、科学の発展は「私」の進歩にも影響を与えてきた。例えば、天動説を信じていた時代、自動説が明らかになることによって、人間は天動説時代よりその視野を拡大し、謙虚になった。しかし、その「私」の進歩は科学の発展と比較すると、余りにも遅々たるもののように感じる。

 「私」を取り巻く物質的環境圏は急速に改善し、発展してきた。人権、自由の尊重といった啓蒙思想の影響で、「私」はより大きな可能性を得たが、「私」自身の精神、もう少し文学的に表現すれば、人を愛する能力は拡大、発展しただろうか。「私」はいい人間となっただろうか。現実の世界では、紛争や戦争が絶えないのだ。

 「はやぶさ2」は地球の重力によってスイングバイをし、小惑星「リュウグウ」に向かった。「私」も地球の重力によってスイングバイし、古い革袋を捨て、新しいパラダイムの世界に飛躍しなければならないのではないか。

(ウィーン在住)