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朴正煕の涙


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 愛国歌(韓国の国歌)がそんなに悲しい歌だとは知らなかった。「東海の水が乾き果て白頭山が磨滅する時まで…」。歌が始まると、瞳に浮かんだ涙がいつの間にか滝のように流れ落ちた。鉱夫も泣き、大統領も泣いた。講堂の中はたちまち涙の海と化した。1964年12月10日、朴正煕大統領(当時)がドイツのハンボルン炭鉱を訪ねた時のことだ。

 講堂には作業服を着た韓国人の鉱夫と韓服姿の看護婦たちで満席だった。鉱夫たちの顔と服には黒い石炭の粉がこびり付いていた。二十歳余りの看護婦たちは貧しい家族の生計を立てるため、異邦人の死体を拭くことも厭(いと)わなかった。朴大統領は彼らの前で、「私たちは一生懸命、働こう。子孫たちのために一生懸命、働こう。一生懸命、働こう」と叫んだ。涙で喉が詰まった大統領は、この言葉だけを繰り返した。

 幼い看護婦たちは陸英修大統領夫人の前に押し寄せて「オモニ(母さん)! オモニ!」と言って泣きながら、襟がちぎれるほど陸夫人の服をつかんでしがみついた。夫人は母親のように彼女たち一人ひとりを抱き締めた。鉱夫たちは西ドイツの大統領の前で、床に両手をついてお辞儀をして懇請した。「どうか、韓国に援助してください。どんなことでもやります」。

 朴大統領の西独訪問は“涙の外交”だった。大統領はエルハルト首相に「資金をちょっと貸してほしい」と何度も頼み込んだ。あまりにも涙を流すので、西独首相が「ニヒット・ヴァイネン(泣かないでください)」と言ったほどだ。当時、貧しい東方の国にさっと巨額の金を貸してくれる国はどこにもなかった。西独に派遣された鉱夫と看護婦の月給を担保にして、やっと1億4000万マルク借りることができた。この資金で韓国は“ライン川の奇跡”を漢江に植え付けた。

 ちょうど半世紀かかった。来月10日、涙のその日にハンボルン炭鉱でつつましやかな記念式が開かれる。行事には当時の派独鉱夫・看護婦と朴寛用・元国会議長などが参加する。歴史の現場であることを知らせる表示版も立てられるという。

 朴正煕に対する評価は人によって違い得る。しかし、この言葉だけは胸に刻もう。「その人の靴を履いて1マイル歩く前には彼を判断するな」。インディアン部族の格言だ。いまだに多くの人が朴正煕の靴だと言えば、見向きもしない。そんな我々が果たしてその時の涙を十分理解できるだろうか。

(11月25日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。