序 章 唯物論の克服――正しい人間解釈を求めて

唯物論的な精神風土

 何のために私はこの本を書くのか、何を訴えようとしているのか、何が私を駆り立ててこんな本を書かせるのか、ということについて、およその見当を読者につけていただくために、最初にはっきり述べておいたほうがよいと思われることがある。それは唯物(ゆいぶつ)思想というものが本書では終始一貫して批判の対象となっているということである。唯物思想とおおまかに呼ぶことのできる無意識の、根深い精神構造を克服しない限り、今の世界の閉塞状況を打開するすべはなく、まして未来世界の建設など望むべくもないというのが、九年前『意識の再編――宗教・科学・芸術の統一理論を求めて』(勁草書房、1992)という一書を世に問うて以来、機会を与えられるごとに書き、あるいは話してきたことすべての根底にある私の主張であり確信である。

 唯物思想とは何であるか。それは存在の基底にモノを想定する思想だとだけ言っておこう。それ以上ここでは立ち入らない。その考察が本書の主要部分をなすはずだからである。「唯物論研究会」などというビラが大学の構内に今はもう見られなくなったように、唯物論者を正面から自称することを人々は憚(はばか)るようになったかもしれない。しかし、いわばこれは地下に潜(もぐ)ったのであって、広い意味での左翼的・唯物論的精神構造の持ち主は依然として多いどころか、むしろ主流を占めるといってよいだろう。だがそのほとんどが、自分でそれを自覚していない無自覚の唯物論者だといってよかろう。私は唯物論的な心の習癖が、我々自身と我々の住む世界を、偏狭な暗い空間に閉じ込めるだけで、将来への何の展望をも与えるものでないことを示したいと思う。ただ昔からそうであったように、戦闘的な唯物論者というものは依然として存在する。そういう人々にとってそれは一つの信仰であって、彼らはいわば自分の聖域に対する侮辱を許すことができないのであろうと、私は多少の経験を通じて考えるようになった。

 私が本書で述べようとすることを、比較的抵抗なく受け入れてくれる人々もあるだろうが、おそらく大多数の人々が受け入れるのにかなりの困難を感ずるであろう。二十一世紀は「心の時代」になるだろうと少なからぬ人々が言っている。私もそう考える。しかし人はどのような意味合いでそう言うのであろうか。おそらく、今まであまりに物質的豊かさばかりを追求してきたので、今からはもっと心の豊かさということが強調されなければならない、またそういう時代になるだろう、ということではなかろうか。私は単にそれだけのことを主張するためなら、こんな著作を企てたりしない。私の目的は、現代社会に最も支配的な、しかし人々が気付かないでいるおのれ自身の唯物論的な精神構造を自覚させ、自省させ、改めさせようとするところにある。人はこれを不敵な企てと思うかもしれない。しかしどう思われようとはっきり言えることは、基本的な精神構造がこのままで、つまり基本的に唯物論的な世界解釈をこのままにしておいて、その上に「心の世界」などを構築しようとしても、それはほとんど無意味だということである。モノとココロの適当なバランス、などという安直な問題ではないのである。「心の教育」というような政治家からの提言が、いかに切実でその真剣さを疑うことはできないとしても、どこかむなしい響きを持つのは、この基本的な精神構造の問題が横たわるからである。同様に、基本的に唯物論的な新聞などが「心のページ」などというものを設けても、やはり偽善的に響くだけである。正しい人間解釈というものはあるか

 したがって本書は、いわゆる「パラダイム」、すなわち基本的なものの考え方の枠組みということに深くかかわることになる。私は学問的であることを心がけるけれども、ただこれは決して当世流の理論構築遊びのたぐいではないと言っておきたい。私はこれを世直しの問題あるいは意識改革の問題として提起するのである。「パラダイム・シフト」と言われるような考え方の激変には苦痛が伴うであろう。物理学の内部でさえ、現代物理学の新しい考え方になじむのは難しいのだと言われる。ちょうど有名なプラトンの「洞窟の比喩」の中で、壁に向かって坐るように慣らされていた囚人たちが縛(いまし)めを解かれて、光の来る後方を向くように強いられれば苦痛を覚えるほかないように、ある人々には私の言うことは受け入れがたいことに思えるかもしれない。しかしそれは私からみれば、あまりにも今の我々の通念ないし常識が一方的な偏頗(へんぱ)なものであるからに過ぎない。

 したがって必然的に本書は、この世界とこの世界に生きる人間という存在を、そもそもどう捉えるかという根本的な世界解釈あるいは人間解釈の作業から始めなければならないことになる。正しい人間解釈というものが存在しなければならないと私は思う。正しい人間解釈などと言えば、独りよがりだとか、押しつけがましいとか言われるであろう。解釈である以上「正しい」などという言葉は使えないはずだとも言われるかもしれない。確かに人間とは何かに答えることは、数学の問題に答えることとは違う。けれども、人間というものの解釈に恣意(しい)性や相対性が許容される余地は全くないと私は思う。それに我々が正しいと合意することのできる人間解釈がともかくもなければ、我々がこの世に滞在する数十年の方針の立ちようがあるまい。政治も教育も倫理道徳も、その他もろもろの人間的営為の方針が立たないだろう。正しい人間哲学というべきものが、仮説的にでも存在しなければならないのである。道標も何もない砂漠の中で、方向などかまわずとにかく死ぬまで歩けと言われても、我々はそういうことに耐えられない存在である。人生は多義的なものなのだから一つの解釈に賭けるのはやめよう、などといかにも物分かりのよさそうなことを言っている間に人生は終わってしまうのである。私は価値の絶対性というものを信ずる。生きる知恵の普遍性を信ずる。

 このことは一方において、人生に対する、人間存在に対する徹底して冷静な見方を要求する。理性的な人間なら、無方針・無原則に生きることを退けると同時に、狂信者として生きることをも退けるだろう。私は本書においてそのようなクールな、学問的な態度を貫いたつもりである。読者の判断はともかく、私は本書を学術書として提供するつもりである。とはいってもそれは厳密な論証を心がけるということであって、そもそも人間学などというものの概念が定着しているわけではないのだから、もちろんその分野の専門書というような意味ではない。

 それでも「人間学」という名称を私は主張したいのである。従って私はこれに鉤(かぎ)括弧をつけることにする。わが国のいくつかの大学に人間学部や人間学科は確かにあるが、経済学や物理学のように人間学という受け入れられた学問の分野があるわけではない。しかし私個人の内部に、「人間学」と名づけたい一つの体系が、時間をかけて徐々に出来上がってきたのである。そしてありていに言えば、すべての論著の目的がおそらくそうであるように、私は他人だけでなく自分を納得させるためにも、これを筋道を立てて論述してみたいという抗し難い気持ちを持つに至ったのである。

倫理道徳の根拠

 ところで本書の書名とした『善く生きる』はプラトンの言葉から借りたものだが、これは便宜的な呼称にすぎない。本書の本来のタイトルはサブタイトルとした『「人間学」の基礎と倫理の根拠』であるので、これについて一言しておきたい。「人間学」の基礎とは、「人間学」の理念の基礎固めというつもりであり、それが私の内部で倫理の根拠ということに最も大きくかかわっているから、こういう題を選んだ。倫理道徳の根拠は、超越者を持ち出す以前に、この「人間学」の学的体系から自然に導き出されるではないか、という意味をこめたつもりである。しかし題はどんな題をつけても、内容を的確に言い表すことはできない。私の「人間学」は独自の体系を持っているつもりだから、英訳すれば、human scienceでもhuman studiesでもなく、さりとてphilosophical anthropologyは長ったらしく、さしずめhumanologyという造語によるほかはなかろうと考えている。

 実は最初は「倫理の自然学的基礎」という題を考えていた。「自然学的」は「ナチュラリスティック」のつもりだが日本語として熟さないので結局やめることにしたが、これは、超自然学的でない、超越論的でない、という意味である。これを「自然科学的」とか「科学的」とかするわけにはいかない。近代科学とは唯物論的前提に立つものだからである。かといって、最初から倫理の根拠を超越的次元に置くということ、超越者すなわち神を倫理道徳の根拠とするということは、信仰者はともかく、宗教的次元を論証の中に持ち込むことを頑(かたく)なに拒否する現代人の思考習慣を逆撫(さかな)でするであろう。そこで私は、超越論的次元を取り込むことなしに、「自然」に、倫理道徳の普遍的・必然的な根拠を論証することができるのではないかということに考え至ったのである。要するに、宗教を拒否する近代人でも納得できるはずの倫理の根拠が、私の「人間学」によって可能になるであろうということである。このことを言っておけば、読者におおよその私のアイデアを示すことができるのではないかと思う。

 それでも私は〈神〉という概念を仮説的に用いなければならない。読者はそれを見て、それのみを根拠に、本書を放り出すような性急なことはしないでほしいのである(私がそんな念を押すのは多少のこれまでの経験からである)。すべて言葉というものは、とりあえずそう言っておくという形でしか使えないものである。本書が企てるような論述の場合にはなおさらそうである。しかし本書の論考全体が、私の言う〈神〉の概念を読者に自然に受け入れさせることができないとすれば、それは私の論証力の不足のせいである。〈神〉の概念については独立した一章を設けなければならない。これは避けられないことである。(西田幾多郎という人も、自分は哲学者であって宗教の立場とは一線を画すると言いながら、〈神〉という概念を随所に用いざるをえなかった)

 むろんこれは私流の信仰の書だとも言える。私流の信仰と信念が根底にあると言っておかなければならない。(〈信仰〉についても、とりあえずそう言っておく)。それがなければ、そもそもこんな論述を企てたりしない。信仰あるいは情熱から出発しないような書は、書くにも読むにも値しないと私は思う。しかし論証ということはまた別の問題である。直観的に見通していることであっても、それを万人に納得させるためには、筋道を立てて客観的に地道に論証しなければならない。そしてその万人の中には自分自身も入るのである。幾何学の証明と同じである。芸術作品の分析でも同じであろう。あとは私の論証能力の問題であって、これは私自身が判断することではない。


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